ベース論

まずはベースの話、事件の背景、犯人織作茜の動機の根底にあるものを、彼女の行動から理解していこうと思います。

 

 

 

 

 

 

京極堂曰くこの事件は絡新婦の事件だそうです。彼はそのことに気づいてから、犯人の”正体”が朧げに見えてきたと語っています。女郎蜘蛛の正体とは、古くは神女――巫女。その神性を剥がされたときに現れるものが女郎蜘蛛。つまり京極堂は、御伽話の神女とシンクロした者こそが犯人だと感じたということになります。

詳細は憑物落としの際に織作葵に語っていますが、その御伽話は葵に向けてというより茜に対して語っていたのではないでしょうか。あなたはこの御伽話のような体験をされたんですよね、と。

 

母、織作真佐子もこの御伽話のような体験をしています。しかし彼女は、神性があったこと(すなわち女系家族の習わしがそれはそれで正しかったこと)や、それを剥がされたこと(すなわち父に教わった家父長制が正しいものだと思い込まされたこと)に無自覚でした。

無自覚な者に無自覚だと教える。これが憑物落としです。そして京極堂はこうも言っています。「絡新婦は落とすものではない」と。これはつまり時代に殺された女系の悲劇に”気づいたとき”に、神女は絡新婦になるという意味ではないでしょうか。真実に気づいている者、自覚している者に、憑物落としは効果がありません。絡新婦とは、神女が神性を剥奪されたときになるのではなく、剥奪されたと”自覚したとき”になるのではないでしょうか。

 

犯人織作茜は、京極堂の語った女系家族の悲劇を識っていたのです。だからこそ絡新婦になった。識らぬ者はこの事件の犯人にはなれないのです。識ったから絡新婦になった――ここにこそ、茜の犯行動機があるのだと私は思いました。

 

 

 

 

 

茜は二十歳かそこらのとき、家出に近い形で社会参加をしています。京極堂はこれを、何かに対するレジスタンスだったのではと発言しています。私は、彼女が気づきはじめたのはこのときだと思います。

識って、気づいて、自覚して、そして抵抗して家を出た。

抵抗したということは、そのままではその呪詛に呑み込まれるからだということになります。呪詛、つまり家父長制の教えです。茜は、この呪詛の当事者だったのではないでしょうか。当事者だったからこそ、逃げなくてはならなかった。葵や碧とはちがう、彼女はある意味長女だったからです。

 

どういうことかといいますと、長女紫は先天性の病気持ちで永くは生きられませんでした。織作の家を継ぐ長子としては、紫はふさわしくなかったのです。となれば、次女の茜にその役目が廻って来たであろうことは想像に難くありません。教わった理によれば御伽話よろしく、「長女は永遠に家から出ない」。婿を取って家を支えていく運命が定められていたのです。おそらくはそれを、当たり前のこととしてずっと無自覚に生きてきたのでしょう。それがちがうと気づかせられたキッカケは、葵の存在だったと考えられます。

 

 

葵は女権拡張論者です。彼女の告白によれば、十八歳のときに男性だと気づいたそうです。そしてそのときには女権拡張運動が盛り上がってきた頃だったそうなので、彼女が女権拡張論を唱え始めたのがもう少し前であることが分かります。葵と茜の歳の差は約五つ。葵が論を発し始めたのが十五歳くらいのときであると仮定すれば、茜が家出した時期と符合します。

 

茜は葵によって無理やり覚醒させられてしまった。彼女の常識が揺るがされてしまったのです。葵の説得力のある話は、自分もそういう生き方をしてみたい、このまま家にいたままで一生を終えるなんて嫌だという想いを奮起させてしまったのです。そうして家を飛び出した。家庭を守る石長比売ではなく、男に屈しない木花佐久夜毘売になるために。

家を出る直前におそらく、曾祖母から織作家の本当の習わしを教わったのではないでしょうか。その話によれば、”次女”は本来嫁ぐもの。そしてたとえ向こうの夫に裏切られようとも、それに縛られず自由奔放に生きる木花佐久夜毘売の姿こそ、織作の次女としての本当の姿。それに憧れたのです。紫の病気のことを知らなかった彼女は、次女の本来の役割として自立を目指したのです。

 

 

 

 

 

 

社会勉強をしはじめたばかりですから、自分で稼いで生活するのもやっとの状況だったのでしょう。そして生活のためにR.A.A.に志願することになるのです。茜にとってR.A.A.とは何だったのでしょう。

 

女系の習わしが正しいものだと教わったばかりの茜にとって、R.A.A.は殿方を迎え入れる夜這いシステムと同じだと捉えたのではないでしょうか。婿取りの家庭に反発し、自由恋愛を求めていた茜にとっては、相手を特定しない性交渉は、女性の視点からは良い種を探すレヴェルの話でしかない婚姻制度と同じだったのではないでしょうか。現に、志摩子のように将校のオンリーになって現地妻のようになる例もあるのです。茜はこれこそ望むところだったのでしょう。囲われ女や現地妻という見方は男性視点の偏見でしかなく、女系の女にとっては旦那は良い種を残してくれればよく、その後はいてもいなくても関係ない、旦那を必要としない婚姻制度と同じなのです。石田房江と同じように。

 

そしてその生活は、R.A.A.崩壊とともに終わり、その後知り合った八千代と志摩子の三人で、石田房江宅に移って生活をはじめます。その最中、茜は現実を突きつけられたのでしょう。自分のやってきたことが自由恋愛ではない、ただの淫売だったのだと。

 

キッカケが何だったのかは想像するしかないのですが、R.A.A.志願者の多くはそれ無きあと私娼になったらしいという木場修のセリフの通りに、おそらく石田房江宅で茜は私娼となったのではないでしょうか。

 

R.A.A.と私娼の一番のちがいは、男から金を取るか否かです。R.A.A.では生活費は国が支給してくれていましたが、私娼となれば話は別です。男から金を取らねばならない。金のために男と寝る行為は、恋愛とは別物なのです。まさに石田房江と同じ価値観です。

だから茜はやりたくなかったのでしょう。しかし共同生活ですから、同居人が納得しなかったのでしょう。

 

 

 

――私娼になりたくない?

――なら他に食いぶちがあるっていうのかい。教えておくれよ

――今までだって同じようなことしてたンだから、今更何云ってンだい

――ちがうって?

――金を貰ってやってたンじゃないから売春じゃない?

――笑えるわ。ならあンたは何のためにR.A.A.にいたのサ

――そんな恋愛なんてありはしないよ

――もしあンたが本当に金のためにあそこにいたわけじゃないんなら、

――それは売春でも娼婦でもない、

――あンたは無料の淫売だよ

 

 

 

おそらく、こんなやりとりがあったのではないでしょうか。石田房江とシンクロするやりとりですね。房江は自殺しました。茜も自殺しかねないほどショックだったことでしょう。かといって、社会経験の不足していた茜に、他の仕事をみつける能力などなかったのです。このとき茜から神性が剥がされ、神女は娼婦に成り下がったのです。

茜はそれから暫く娼婦紛いの生活をして、そして逃げ帰るように自宅に戻ったのでしょう。

 


 

 

 

 

 

 

 

家に逃げ帰ってから茜は、自分に起こった出来事を整理して理解しようとしました。そうしてすべての真実、織作家の内実から世間の実態から、何から何まで理解するに至った。そうして自分に残った事実は、自立に失敗して娼婦になった過去を持つダメな女、というレッテルだったのです。

 

誰かを恨まずにはいられなかったでしょう。

葵が気づかせてくれなければ。

父や母の家父長制の教えがなければ。

曾祖母の女系の理を知らなければ。

そもそも紫の病気さえなければ。

 

まさにこのときに、彼女は女郎蜘蛛となったのではないでしょうか。無自覚なままなら、幸せな神女でいられた。しかし”気づいて”しまったとき、呪詛が解けたとき、巫女は妖怪へと姿を変えたのです。

 

これが茜の犯行動機の背景、ベースになっていると私は推測しました。

ただし、これはあくまで背景の話です。実態、核心に至る話は、次項で記します。

 

 

 

 

    TOP     核心論 / 詳細論

 

 

 

 

 

コメントをお書きください

コメント: 4
  • #1

    通りすがりの者です (土曜日, 21 11月 2015 10:46)

    コメント失礼します。
    絡新婦の理の考察、興味深く拝見させていただきました。
    茜の心情について本編でははっきりとは説明されていない部分もあり「どうしてかな?」と思うところも多かったのですが、こちらの考察でストンと納得できました。
    また絡新婦の理を読み返したくなるような考察で楽しかったです。

  • #2

    gultonhreabjencehwev (土曜日, 21 11月 2015 20:26)

    コメントありがとうございます!!
    共感していただけたならホントうれしいです!

    なんせ分厚い本ですから、事件の詳も忘れちゃったって人がほとんどなじゃないでしょうか。なのでこのサイトの内容を前提にして、もう一度読み返していただければ、納得する部分がさらにでてくると思います。

    ぜひ!!

  • #3

    aaa (金曜日, 26 5月 2017 20:41)

    何年も前の記事にコメント失礼します。
    読み返しを機にこちらを拝見しました。

    思い至らなかった点も多く楽しく最後まで読ませて頂きました。

    記事中の茜のR.A.A志願は生活のためであり、自立の失敗だったという点。
    これは3人の娼婦・志摩子から(木場が聞いた話)によると
    「志願兵ならぬ志願酌婦だったようだ。金に困っている様子もなく…」
    という事で、自立の失敗ではないかと思います。

    この時点ではこれが茜の事だとは解りにくく、又もう一人の娼婦・八千代も学校を中退した同齢なので紛らわしい。
    ですが京極堂は関口に向かって茜のことを「(妹に劣らず)社会に対する主義主張も確り持っている」と評しています。
    それに該当する茜の主張は他に見当たりません。

    「訪れる貴人を迎える古き織作の女」は戦争のための父権によって貶められたが、戦後の新しい時代に新しい形で復活する。
    そう考えると、織作の女としてのアイデンティティを保ちつつ、近代人として社会参加できる…そう茜は考えた…

    というのは私の想像ですが。

    とはいえ結局同じことをやらされ、世間の目は淫売。
    つまり自立の失敗は、R.A.A自体が間違いの政策であり、それを見抜けず参加してしまった事かと思います。
    だからた茜は度々「葵のように賢くなく、自立できず…」というのではないでしょうか。

  • #4

    gultonhreabjencehwev (土曜日, 27 5月 2017 23:39)

    コメントありがとうございます!

    あ、そのとおりだと思います!
    私も、自立に失敗したからR.A.A.に行ったとは思っていません。自立の失敗は結果論だと思っています。そう読み取れる感想文になっちゃってましたよね。文章下手ですみません。

    金銭面の事情はまったく関係ない、という解釈にはなるほどです。私は、家からの仕送りとかは無かったろうから、困ってたんじゃないかなと勝手に思っちゃってましたが、その伏線は見逃してました!

    あとは、この時期の茜の真実を読み解く重要な手掛かりとして、京極が語った女郎蜘蛛の解釈にある「生殖と性衝動の乖離」をベースに考える必要があると思っているのが、私の価値基準です。
    京極が怪異を語るとき、それはそれに当てはまる人物の内面を同時に語っているのだというのが私の考えるところですので、事件と関係のない妖怪のうんちくなんて無い、女郎蜘蛛の講釈は、すべて茜を語っているはずだと思っています。

    いただいたコメントの茜の心中は、この価値観の範囲内にある解釈だと思います。すばらしいです!納得!